筑波大学水泳26年8ヶ月間 
前筑波大学水泳部水球監督 坂田勇夫(40年卒)


はじめに
 東京教育大学ー筑波大学水泳部部長は、梅田先生、奥野先生、高橋伍郎先生、坂田という順で引き継がれてきた。監督については、筆者が入学した32年当時は荒木監督で、時期は明確でないが荒木監督がブラジルへ在外留学された時、一時磯谷監督(佐賀大学教授。当時、野村・田口コンビ時代)に代わり、荒木先生が帰国されて、再び荒木先生が監督に復帰されたと記憶している。
 東京教育大学から筑波大学に移行した昭和50年8月1日に筆者が着任した。当然というか、自動的に監督業を引き継ぐことになった。以下、26年間にわたって、筆者がこころがけてきた水泳部育成のコンセプト等を簡単にまとめ、次世代へつなげたい。
 しかし、ここでは、水球中心になることをお許し願いたい。


赴任までの経緯
 筑波大学初代体育センター長である大石三四郎先生から昭和50年の春頃、体育センター講師人事の誘いがあった。その時、勤務していた武蔵高校は、勤務条件としては最高で居心地はよく、中学2年生対象に臨海学校を永年千葉県外房の鵜原で行っていた。それまでのプログラムは遠泳主体におこなわれていた。鵜原の白砂の浜から鵜原湾の外洋に泳ぎ出て、三つの岬を泳ぎ越し、守谷海岸を右手に見ながら泳ぎ進み、興津の浜までの大遠泳は圧巻だった。泳ぎの熟練者にとってはこのようなすごい体験が用意されたが、初級レベルに対しては、若干手厚いプログラムは用意できなかった。
 そこで、すべての参加者に有意義な海の経験ができるためのプログラムを立案した。すなわち、泳ぎの熟練者には、遠泳とスキンダイビングとサーフィンを、泳ぎの初級者・初心者には遠泳を主に体験するというプログラムに改変して3年目であった。このアイデアは、当時臨海学校における企画では斬新的で、遠泳だけでは知り得ない海という自然を、波の威力、海中生物の多様性、海中風景の美しさ、海の危険性等、直接経験によって実感し、感動できるスポーツプログラムであった。それが、やっと軌道に乗っていた時だけに、これからさらに充実した臨海学校へ発展していきたいと思っていたので、後ろ髪引かれる思いがした。
 また、武蔵中高校では、ユニークな体育の授業を展開するほかに、アウトドアスポーツ指導が充実していて、冬から春にかけてはスキー教室や課外活動でのスキー合宿・スキー試合あるいは春スキー等の引率や指導等でスキー三昧の生活に明け暮れることができた。自然のすばらしさの享受と信頼感ある教員仲間に恵まれ、快適な教員生活を送っていたわけである。学校までの通勤時間が2時間半かかることが大変だったことを除けば、丹沢の山麓で畑を耕し無農薬有機肥料で生育したみずみずしい野菜、春の山菜取り、秋の山芋掘り等を楽しみ、季節の移り変わりを堪能する自然に親しむ心豊かな生活を送っていた。
 それだけに、筑波大学からの誘いには「行くべきか断るべきか」大いに迷った。しかし誰か茗水の若い者が後輩の育成したり・面倒をみなければならないという思いは強く、結局は、妻と母親の同意を得て、すばらしい武蔵と決別し、転職することにした。
 着任してから定年退職まで26年8ケ月間経過した今、過ぎし日々・月日を振り返えるとつくばにおける充実した楽しい思い出が蘇ってくる。


2部から1部への時期
 着任は、2部降格(50年6月末)した1ケ月後であった。卒業して水球にかかわったのは昭和41年頃の数カ月で、当時、現役の練習意欲に愛想をつかしたことがあった。また、納会時に秦野から駆け付けてみたらプールの水が抜かれてその日は納会と宴会はお流れになった。責任者から何の連絡もなかったし、その後、何の謝罪もなされなかった。全く先輩をコケにしたことへの怒りはまだおさまっていない。それ以来現役の活動に対して、応援・支援等々一線を画してかかわらない方針でいた。
 ところがである。どういう因縁かわからないが、筑波大勤務することで、後輩の面倒を見なければならないことになってしまったのである。私学から国立への移動は給料ダウンという好ましくない事態が附随したわけであったが、監督に就任した以上、金銭的なことは忘れて、あきらめて、できるだけ早く1部に復帰させることに没入することとなった。
 当時は、東京教育大2、3、4年生と筑波大学1年生とが合体してチームを編成していた時であった。つくばから試合毎に東京に通い、ゲームに出場(遅刻して試合に出れない1年生もいたと聞く)したわけである。筑波大学にはプールがないので、近くの中学のプールを借りて練習していたと聞いている。しかし、最悪の練習環境条件と東京への試合通いに我慢ができずに、1期生のなかの優秀な人材が数人水泳部をやめていった。
 プールは昭和50年に平砂宿舎1号棟の前に25m、7コース、水深 1、2〜1、4m が完成して、やっと自前の大学プールで練習ができるようになった。筆者は、着任と同時に地域住民のための公開講座(水泳、テニス、バドミントン、スキー等々)の企画運営指導、共通体育の教育指導、諸業務を担当する一方、課外活動である水泳部の指導を必死に取り組んだ。当時は東京教育大学当時と同じで、部員が競泳と水球の試合の両方に出場していた。筆者は、2部に降格した水球を1部復帰するために、真剣に取り組んだ。まず、チームの一人一人の意識改革とチームのモラル改革であった。筆者自身の経験から、2部チームは2部チームにふさわしい雰囲気があり、練習への取り組み方があって、そのモラルにはまってしまうと、目標設定が低くなり、そのため練習に対する考え方・意欲が甘くなり、早急には2部を離脱できなくなるという危惧感が大きかった。そこで、一刻も早く、1部昇格することと1部上位入賞を果たしたいため、普段の練習時間の充実化と練習試合経験を増やすことを実践した。学生の意識をトップレベル方向を志向する意識への改革は最も重要と考えた。


練習の量的改善による意識改革
 先ず、春休みに行なう館山での合宿期間を長くして練習している時間を延長した。しかし、新学期がはじまると、つくばでの練習は平砂の屋外プールなので、4月、5月は寒風が吹き抜け、低水温という最悪の練習環境となり、十分な練習(内容と練習時間)ができないことは明白であった。そこで思いついたのが、ウエットスーツ着用であった。このアイディアのお陰で、冷たい水に長い時間入っていられるようになり、練習効率は顕著に向上した。このウエットスーツ利用は、その後、各地の高校チームに採用され水温の冷たい初春や晩秋の練習に採用され、練習期間の延長と冷水温によるスポーツ障害防止に役に立ったと聞いている。
 着任以来、泳げるうちはプールを使用したが、水温低下に伴い泳げなくなる時期11月以降には、陸トレ、早朝球技トレーニング等一緒に部活を行なった記憶が蘇る。


練習の質的改善による意識改革=実力優位チームと頻繁な試合交流
 「意識改革」する次の手段は、実力的に優れた1部チームとの練習試合であった.練習時間の量的改善のつぎには、自分達の水球の実力がどれくらいのレベルかについて正しく認識することであり、相手レベルを正確に認識することが重要であった。そのためには、レベル的に上位チームと練習試合を数多く行なう必要から、あらゆる機会をつくって、上位チームにお願いし、各地に出かけて行って、ハードスケデュールの中で練習することを試みた。
 江田島の海上自衛隊体験入隊、朝霞の体育学校体験入隊、リーグ戦帰りの法大や日大との練習試合、各地のOB率いる強力高校チームとの練習試合等々思い出は尽きない。
 東京から7、80kmも離れた遠隔地にある筑波大学は、当初は常磐高速道は開通していないため、他大学との交流が簡単にできなかった。交流するには当然、経済的・精神的・肉体的負担が強いられたが、それらの苦難を乗り越え、ただひたすらトップレベル突入を目指してガッツ精神で東京へ、あるいは広島へ、あるいは各地へ、車に相乗りして移動し練習試合を消化していった。今があるのはその当時の各現役達の苦労と並々ならぬ努力、経済的負担(途中から茗水OBの合宿費援助有り)そして相手チームの協力があったればこそと思っている。
 これらの交流の付加価値としては、他大学の水球仲間が増え、彼等との間に先輩後輩関係が樹立するほどの仲になり、卒業以降も親交が続いていることである。2年目にして、早大との入替戦で勝ち、やっとのことで昇格し、翌年のリーグ戦で3位入賞を果たした。意識改革と猛練習と推薦入学による人材確保の効果が発揮されたことによるものと思われる。


競泳チームの独立
 着任して3年目に、野村照夫と後藤真二の申し出により競泳ブロックが独立することになった。練習は競泳組と水球組に分かれた。それまでは、東京教育大の流れで、部員全員が競泳、水球を練習し、競泳と水球の試合に出場していた。女子部員も少しずつ増えはじめ、江波(旧姓中林)、笠井、加藤(旧姓鈴木)を主力としてインカレで初優勝を飾った。彼女等は冬休みを利用して、初のオーストラリア海外遠征に参加した。男子選手と一緒だったが、オーストラリアで水球試合を10数試合経験したり、ホームステイで友好交流をはかって、家族の一員として楽しんだりした。遠征が気分転換になったのか、帰国後のその年のシーズンで彼女等はベスト記録を更新し、インカレで優勝することとなった。オーストラリア遠征効果と筆者は考えているが、当然帰国後の彼女等の努力があったから成功したことは勿論であった。


競泳コーチによる泳ぎの指導=質的改善による意識改革
 野村照夫競泳コーチ(当時大学院在学)にお願いして、泳ぎの改善と泳力強化の練習メニューを教わった。スイムコレクションによって今までよりうまい泳ぎ方(かき動作とキック動作とコンビネーション)の指導を受け、泳ぎの改善をはかった。また、練習の方法は、それまでの泳ぎ練習が、50m×20回 60”サークルであったものを、質的転換をはかり、50m 60”→50”→45”のサークル練習、中距離測定(200mあるいは400mトライアル)等々、水球ゲームを想定した泳ぎのスピードとスタミナつくりのトレーニングへとコンセプトを切り替えた。
 そこで、記録会の測定種目として、200m泳を取り上げ、ベスト記録か2分10秒以内で泳げば、ウイスキーのボトルが獲得できることにした。何人が獲得しただろうか?
 つくばのゲーム特徴は、スタミナ抜群であること、特に後半、速攻による得点力はすばらしかった。その特徴は、いまでも継承していると思っているが、どうだろう???


海外交流(異文化交流)による意識改革
 筑波大学には推薦制度があって推薦条件に適えば優秀な人材は確保できるし、加えて、体育施設には恵まれ優秀な指導者(?)がいるので、国内で優勝するのが当然だと期待されている。「そういわれれば、まさしく然りである。」
 どんな理由があるにせよ優勝するか、悪くとも日本のトップグループの座を確保しなければ、指導者の資質が問われるのは必定であった。というのは、推薦制度とスポーツ施設に恵まれていれば、あとは指導者の能力ということになる。しかし、人材を獲得し、育成し、日本のトップにすることは非常に難しいものであった。特に、二三の他大学は質量的に数多くの人材を入学させることができる制度をもっているので、それらの大学を打ち破って勝利をおさめることは並み大抵の努力なしでは達成できなかったといえる。
 筆者が実施してきた強化育成の根幹は、各選手の「意識改革」に終始してきた。選手はどのようなレベルでも、各人のレベルアップをはかるためには、常に自己の現状を打破してより高いレベルへ向上させなければならない。即ち、自己の能力を開発・拡大・改善していくためには「より高い目標を実現する意欲・態度・行動様式=個人内文化様式の改革」が重要であった。そこでつぎのような意識改革をはかる強化策を実行した。
 3位になったのを機に(重枝等が3年生の冬)、外国チームと交流することが絶対必要であると考えた。
 その当時の日本のナショナルメンバーの構成は一つの大学によって占有状況にあった。他大学でそのメンバーに選抜される枠は1〜2人が関の山だった。これでは、力強くて技術的にうまい外国選手と交流試合して感化を受けられるのは、一つの大学の選手のみで他大学の選手は経験することは不可能に近い状況であった。そこで、筆者としては、つくばの選手には外国選手と交流を行なう必要を痛切に感じていたので、筑波大独自で海外との交流を実行しなければならないと考えて、その実施時期を狙っていたわけであった。海外との交流には幾つかの方法を、学生の状況に応じて臨機応変に対応して行なった。

(a)チーム遠征による海外交流
最初の海外遠征は、荒木先生(筆者の学生時代の監督)にすべてお願いして、実施話しを進めていただいて実行した。以後17年間ほとんどこの方法で交流を続けてきた。学生達にとって遠征費用の捻出は相当困難あったが、水泳クラブを発足させてアルバイト策をはかったし、それでも金銭的に不足する学生には紫峰会に借入金を申し込ませた。 何が何でも遠征を実現したい一心で、強引に遠征を推進したといっても過言ではない。第1回の海外遠征には、競泳の女子学生もチームも結成して一緒に行くことになった。
 オーストラリア遠征は、1979年12/21〜1980年1/9 に実施することになった。
  12/22 クイーンズタウンA、シンガポール選抜
  12/24 Sin発ーAus 26 CHS, 27 Invitation,28 ニューキャッスル,29 シングレトン,
      30 タムワース
  1/2  ブリスベン(3〜4 トーナメント),5 ニューカッスル,6〜8 マンリートーナメント,
       シドニー大学クラブ
        (イタリアの世界トップのゲッターであるマジストリスが出場 彼に10点得点されて惜敗)

海外遠征は、日本では経験できない外人の体力・泳力・プレー・戦術・レフェリーの笛・オーストラリアの水球事情等を学ぶことであったが、異文化の地で強行日程をこなしながら、自分等の実力を最高に発揮することも重要なねらいであった。
特に、同僚のラグビー指導者の高森先生の話ー「オーストラリアラグビーナショナルチーム編成は、強行日程を消化していく過程で、指導スタッフは各選手の実力発揮状況をみながら選抜する」ーが、つくばの水球の選手育成・強化の方法にぴったりだと判断した。実体験を通して、本当に強い選手へ変身をはかってほしかったからである。
オーストラリア遠征は、まさしく強行日程であった。小さなバスに大勢乗り、乗用車に荒木先生と私ともう一人(選手)がのって、遠距離を移動し、ホームステイでオージーの生活に揉まれ、友好交流を果たしながら、各地で親善試合をするというものだった。
最高に厳しかった日程は、ブリスベーンからの移動であった。早朝3時起床、4時ブリスベーン出発、18時に700km離れたニューキャッスルに到着、すぐに着替えて、10分アップの後、正式試合が開始されたというものだった。
結局、誰一人重い病気はしないで、2年分くらいの試合数を消化し、友好親善を果たし無事帰国できたことは、貴重な体験となったことはいうまでもないと思っている。
以下、各遠征について詳細な報告をしたいが、紙面の関係があるので、遠征を行なった年度(遠征先)を記述することにとどめたい。

  1981 12   グァム国際水球大会
  1982  8    シンガポール
  1984 10   初のスペイン遠征であった。
           その時以降、2年に1回のペースでスペインを中心に、イタリア、上海、
           オランダへの遠征を実施してきた。
  1986      この時は法大、明大と3大学合同の遠征
  1988      スペイン・イタリア遠征、イタリアではフィレンツェ、ミラノ、ジェノバ、ローマを転戦)
  1988      女子チームオーストラリア・ニュージーランド遠征)
  1990,1992  スペイン・シンガポール)
  1994,1995  スペイン・オランダ遠征)
  1996      スペイン・オランダ遠征 男女チーム)と8回も行なったことになる。

   これ以降は、チーム遠征は行なっておらず、個人的に短期留学させる方式を実施した。
 

(b)スペイン人優秀コーチ・選手の招待
1985年から毎年、スペインの選手、またはコーチを招待する方法を採用した。何故なら、遠征で得た諸々の効果は、1ケ月という時が経つと学んだことを忘れてしまうからであった。「思い出させるにはどうしたらよいか?」
そこで、夏休みを利用してスペイン人の選手やコーチを招待すれば、うまくて強いプレーが思い出せるのではないだろうかと考えた。早速、房野さんに相談して招待計画を立案し、選手を選考しては交渉し、招待者を選抜して招待事業を実施することになった。 最初の招待者は、タラッサコチであったジャネー氏と選手であったが、ジャネー氏はJRのナショナルのヘッドコーチに指名された関係で来日が不可能になり、結局タラッサクラブのぺペットをキャップに、マニックス、ハビエル、マリオの4人が来日した。 以降、毎年選手叉はコーチと選手かを短期間、あるいは長期間招待し、筑波大チーム強化のみならず、茗水水球監督率いる各地の高校チームとも交流をはかり、チーム強化はもとより指導者の指導法の研修をはかり、指導力の向上に寄与する努力をはかった。 各地のOB達にとってスペインの水球指導法を研修する絶好の機会になった。
  
  1)ペペット、マニックス、マリオ、ハビエル 4名招待 1985/7/15ー8/15
  2)ジャネー・選手3名招待 1986/7/19ー8/19(ペペット、アントニオ、チャビ)
  3)ペペットコーチ長期招待 1987/9/27ー1988/3/4
  4)コーチ1名、選手10名招待 1987/7/16ー8/26 4大学、東京、埼玉、京都協賛
  5)選手2名招待 1988/7/19〜8/9、
  6)エミリオ、ハビエル 2名招待 1989、7/21ー8/8
  7)ジャネー・モラタ 選手3名 1990/7/19ー8/19、(ペペット、アントニオ、ハビエル)、
  8)1991、
  9)1992、
  10)1993、
  11)1994、1994年以降は、コーチを招待することにも留意して招待計画を推進した。
  12)ジョルディネイラコーチとして8週間招待 1995/7/2ー8/26(インカレ優勝)
    この年は、ネイラの長期招待が功を奏し、インカレで優勝を飾れた。東京教育大学で水球チームが創設
    されて初めての優勝になったのだから大変であった。多くの茗水OB諸兄はこの時とばかり参集し、酒宴
    を開いてよろこびを分かち合った。優勝の祝い酒はまさしくうまかった。夢の中での宴というのが実感
    できる。そのときの夢うつつ状態が今でも脳裏に焼き付いている。インカレ優勝は、創部が昭和13年と
    すると59年ぶりの
    ことであった。
  13)ダニー、アレックス、ルイス招待 1996/7/20ー8/10(春季優勝 ジャパン4位インカレ3位)
  14)1997タティト、パオ、ネルソン招待(日体大撃破してインカレ優勝)
    日体大に勝つことが筑波大学入学者の夢であったが、1993年引分けがあっただけでその宿願は達成され
    ていなかった。ところがである。1997年のインカレ決勝で、日体大に堂々と勝った。いや、勝ってし
    まったのである。正しく宿願をはたしたそのよろこびは筆舌に尽くし難いものであった。多くの若手OB
    達にとっての念願の優勝であった。1998年以降は、コーチを招待するケースが多くなった。何故なら、
    遠征した際、世話になるクラブに対する感謝の気持ちを表すことの現れであった。
  15)ジャネ−夫妻(1998/6/30ー7/11)・トニー夫妻(7/31ー8/22)
  16)ぺぺ アルカサール 2ケ月招待(インカレベスト8、ジャパン4位)
  17)ゴマ夫妻 1999、8、15〜30、ラフィコーチ夫妻 7、27〜8、12 招待
  18)サンティコーチ、選手2名招待
  19)ダニ−コーチ招待(2001 7/28〜8/17)

スペインとの交流の実現には、多くのOBの援助と御父兄の御協力、通訳の方々のご支援があったからできたことをここに記して、こころから感謝の意を表したい。
スペイン水球はバルセロナオリンピックで優勝こそできなかったが、アトランタで優勝し、1998年のパースの世界選手権で優勝、シドニーではペレスを欠きながら4位、福岡での世界選手権で再び優勝した。スペインの栄光は、ジャネー監督の力量が大きく関与している。唯感嘆するのみである。交流当初はそんなに強くなかったスペインが、今では世界で最強軍団となった。そういうスペインと友好交流しているわれわれは、ほんとうにうれしいし、誰に対しても自慢してしまう。
スペインを交流相手として選んだことの正統性と先見性に、結果よければすべてよしという感じである。あとは、この交流をどのように易化していくかが大きな課題であろう。

(c)スペインへコーチおよび選手の留学研修
チーム遠征や選手・コーチ招待事業ばかりでなく、つくばのコーチや選手をスペインへ水球留学にさせることによって、育成・強化の方法を行なってきた。選手の長期(6ケ月以上)研修したメンバーは、西出、白浜、水谷、柳川、青柳、塚本の6人になる。また、短期研修では(1)鈴木、丹生、渡辺、洲、海道、三田村、(2)選手4名(3)丹生、北条、南、岡村(4)高野CNB派遣(5)選手7名派遣 1996、3/8〜3,24(椎野、工藤、山名、原、北山。奥山)(6)1998(奥山 、古賀、森島)(7)1999、2月、3月(青柳・三木)(8)2001(永田、三木、小林、小橋、早崎、鈴木、舟崎)(9)2001〜2002(青柳、永田、斉藤、榎枝、鈴木、舟崎) これまで、受け入れてくれたクラブにはトニーのいるバルセロナクラブ、パヤのいるカタルーニャクラブ、メディテラニクラブ、ラフィのいるタラッサクラブ、サンアンドリュークラブ等であった。これらのクラブにはこころよく御協力していただき、本当に有り難く、しかも懇切丁寧な指導とお世話をしていただいた。この紙面を借りて、皆様に御報告するとともに、心から深く感謝の意を表したい。


茗水気質の継承・伝承することに執心・腐心
 茗水会に伝わる「一宿一飯の義理と人情」、「茗水チームモラル」=(水泳技量の優劣が人間関係の優位差を決定しない民主的人間関係)(学年格差による先輩後輩の力関係を認めながら飲み会での無礼講容認)(練習とアルバイトと学問研究の両立とチーム構成は複数学類・学群を旨とすること)(梅田・荒木ファミリー的人間関係)等々は、筆者の青春時代の精神的バックボーンであったし、それらに対しては後輩に伝えるべき精神的遺産と思えたので。筑波大学の水泳部学生達に継承・伝承したかった。
 そこで、各地のOBと交流親睦をふかめるには、直接お会いして、飲み食い語り、水泳部歌を歌うという実体験を通じることと考えた。各地にいる筑波を卒業した教え子のチームへの強化育成と称して、当地で合宿練習を行なうといっては、チーム遠征し、その地の近在の茗水OBに呼びかけてもらい、飲み会を通じて現役との物心両面の交流をはかり、先輩の人となりに触れて自ずから学ぶことを励行した。伝統を継承する時は直接体験に限るという持論によるものであった。つくばに待っていては親密な交流ははかれない。
 茗水という機関誌もOBのひととなりについて深く理解することはできるが、文言のみの交流では血の通った交流はできないと思っている。先輩各位には迷惑をおかけするわけであるが、迷惑をかけた分、卒業した暁には先輩各位とのこころのつながりがすでに形成されているこころ強さを持ちあわせながら、彼等が後輩の面倒を見るという関係を樹立していったくれたと確信している。今でいうIT社会に必要とされる社会的ネットワークの緊密化システムの確立であったわけである。
 当然、付加価値として現役選手のプレーに肌でもって触れることによって高校水球チームが実力アップに結びつくという支援活動の重要な意味を荷なっていた。後述する優秀高校水球指導者の輩出と優秀選手の推薦入学に役立ったことも事実である。


「つくば」ふるさと論
 生まれ故郷は、「遠くにいて懐かしむところ」という考え方があるが、「久々訪ねて懐かしみ心癒されるところ」というこころのふるさとでもある。OB達が筑波にチームを引率してくると、旧態依然に戻り、学生気分を発揮して浮き浮き状態で生活する様相はまさしく、つくばは、こころのふるさとである。
 筆者は熊本で育った関係で、熊本城、白川、阿蘇山、菊地水源、立田山、金峰山、卒業した小中高など数多くの懐かしい場所、人、景色、物、建物等が熊本に存在する。
 しかし、帰省した折それらがなくなっていた時のさびしさは絶大で、何か心のどこかが空虚になった感じ、虚脱感、喪失感を感じてしまった経験がある。
 最近、帰郷した時、熊本城が改築中で骨格だけが残され、お城として無惨な様相を見た時のなんとも言い様のない寂しさの襲われたことは忘れることができない。また、小中高に恩師がいなくなるとその学校には行きたくなくなる。しかし、そこに顔見知りの先生がいられれば足を運んでしまうものである。
 さらに、大学の思い出であるが、東京教育大学の大塚の占春園のプールが取り払われたあとを見に行った時、あの思い出を一杯累積したプールしたがアオミドロのプールがあと形もなくなくなっていたのを確認した瞬間、空虚さ、喪失感に襲われてしまい、自然に涙がでてきてしまった。こころのふるさと、熱き青年期の思い出アルバムを奪われた感じであった。
 以上のような視点から、筆者のふるさと論は消し去りたくないわけで、つくばが卒業生のふるさととして、いつ訪れても、そのとき高橋が、坂田が、野村が、椿本が、顔見知りの現役がいるという状況で、飲み食い語りをできるようにしたかった。常に、そのことが実現できるように努力を重ねてきた。
 だから、冬休み、春休み、春の連休、夏休み等々の長期休暇を活用してつくばに来てくれることを促進する所存であった。そこでは、当然、現役チームと交流を含めて、卒業生率いる強豪チームはじめ発展途上のチームが実力アップをはかれるメリットがあり、OBと現役の交流をはかれることで積極的に合宿を引き受けた。
 そんな時、来筑する各高校の水球指導者達と現役達は練習を通じて夜の飲み会ミーティングを通じて親睦を深めることになる。当然、つくば在住の水球OBも参集し、来筑チームのために、指導したりと胸を貸したりしてお役に立つ努力を積み重ねてきた。共に飲み食い語る楽しい酒宴の盛り上がりは、年令の差が融解し、先輩後輩の関係が親密にし、古き伝統の継承が促されるのが常だった。
 これまでに出向いた都府県を南から辿っていくと、熊本(済々高、熊本)、福岡(筑紫が丘、福岡、早良、福工)、広島、香川兵庫(御影、尼崎北)、大阪(茨木、国体大阪チーム)、和歌山、京都(鳥羽、乙訓、踏水会、鴨沂)、大垣、豊橋、磐田、掛川西、富山、柏崎、新潟、前橋、東京(明中、城北、武蔵)、千葉(県千葉、市千葉、県船橋、安房)、仙台、柴田、青森となっており、全国的な支援行なってきたといえる。
 話は国際的になるが、スペイン遠征を活用して、パリ在住であった正岡先輩に連絡して住居を訪れ、正岡一家には大層御馳走になった。それを契機に、高木はスペインコーチ研修留学途中や新婚旅行で再び正岡氏と親睦をはかったと聞いている。また、文部省在外研究でオランダで勉強していた松井先輩にお願いして、オランダの水球チームとの試合をアレンジしてもらい、一週間滞在しながら、オランダのクラブ水球チームと練習試合を経験した。この時の貴重な体験のお蔭で、インカレの決勝で日体大をはじめて破って優勝を飾ることができた。
 このように、筑波大水球チームメンバーの行動範囲は、東京教育大学時代には想像もつかなかったほどの全国的、国際的な広がり方で、先輩方との親睦推進、つくばの地がこころのふるさととしての思慕憧憬の念へのこだわりがあったといえる。


茗水OBの指導する高校水球チームの活躍
 水球の全国大会における優勝監督もしくはコーチで、筑波大学卒業生であると限定すれば、これまで重枝武司(福岡工業高)、川合英之(鳥羽高)、町田弦(埼玉栄高)、加藤英雄(秀明栄光高高)、三田村誠(明大中野高)、高野裕史(前橋商高)、信田佳重郎(東京都)、水谷真大(明大中野高)、岩佐隆之(京都府)、岩佐弘之(筑波大)工藤亘(藤村女子高)等の11人の名前を挙げることができる。東京教育大OBの優勝監督・コーチとしては、川井千仭、高橋伍郎、坂田勇夫、吉邑紀義、由井由種、内田力上野正裕、永田研史の8人を数えるがこれを凌ぐ成績であるからすばらしいのひとことである。
 最近では、春のJO、夏のインターハイ、秋の国体の三つの大きな高校生大会(三冠)を制覇するという栄光を獲得したのは、川合英之、町田弦、加藤英雄の3先生であった。これからもその栄光を手にする監督コーチは続々と輩出する気運が感じられる。
 また、上位入賞監督(ベスト8入賞)についてみると、前田済、島岡清孝、木倉敏彦、北村敬司、光田康志、赤崎慎哉、砂子阪誠白浜健太、木場恒樹、井手英俊の10人をあげることができるし、木村和夫、川村清児、吉田由治、高木英樹、目等聡、土生善弘、川合寛明、西高志、川井田真澄、丹生敬人、渡邊満、藤原秀規、中島晴彦、周崎哲郎、伊藤剛、大橋正幸、井上まゆみ、井手智洋匂坂真也、藤原靖弘、柳川洋志、北山智之、富沢利弘、片田克、服部恵美等々が虎視眈々と入賞・優勝監督を狙っている。
 さらには、水球科学研究班関係では、藤本秀樹、鈴木茂広、洲雅明、南隆尚、柿阪均、小森康加等が国際大会、国内主要大会のゲーム速報、ゲーム分析情報を情報公開を行なって、ナショナル監督やコーチ、多くの国内のチームや観客等の水球普及振興強化に献身的に協力している。 
 以上のように茗水関係には多くの優秀な水球指導者やサポートメンバーとして活躍していることは非常に心強い。


まとめにかえて
 筑波大水球チームにかかわって26年間は、教師冥利に尽きるすばらしい体験の連続でそれ相応の結果をだせたと思っている。これは筆者自身の力というより、選手自身の能力とたゆまない努力と潜在能力の伸長であったし、これらを抽き出してくれたコーチ諸君の指導力によるものであったとここに御報告したい。監督は、それらがうまく行くように気くばりをし、多くの先輩諸兄や御父兄に物心両面の御支援をお願いし、そのお願いが叶えられた総決算であったと考えている。
 考えてみれば、お世話していると思っていたのは「お世話いただき、気配りしていただいて、助けていただいていた」というのが実体であったと述懐しているところです。「生かされて生きてきた」というのが真実でした。ここまであたたかくささえていただいたことに心から感謝の言葉を申し上げたいと思います。「ほんとうに貴重な体験を積み重ねることができ、生きがいある筑波大学ライフを享受させていただき誠に有り難うございました。」
 スペインとの友好交流を17年間継続できたことは、スペイン在住の房野氏(日大卒)およびスペイン人ジャネー氏(アトランタ優勝、パース・福岡世界選手権優勝監督)を筆頭、スペイン水球界の御協力があったればこそと、唯々深く感謝するのみである。
 世界舞台に出場がままならない日本水球にとって、世界の水球情報を肌でもって直接体験しながら学べる機会は、この交流は大きな貴重な意味を有していたし、これからも価値高い意味を有している。茗水水球関係者は一致団結してスペインとの交流を活かしてできるだけ早い時期に、アジアでトップを獲得して、世界選手権やオリンピックに出場することができる選手を育成強化することを切望したい。
 平成14年度から筆者の後任に高木英樹監督が就任した。かれを頂点にして、新たな組織体制が確立され、筑波大学水球チームがレベルアップをはかることになるわけであるが、その実現のためには、サッカーのJリーグのように世界レベルの外国人プレーヤー・監督コーチスタッフ陣の充実と選手層の実力アップ達成、プロ野球のような3〜5万人に達する観客動員数、高校野球にみられる”おらが国さの代表チーム”に集まる膨大な支援金と関心等々は、見習うべき現象と考えている。何もない水球界は、一歩一歩地道な努力を積み重ねて、選手獲得と育成強化体制、財政的支援体制やサポーター体制を確立し、発展的に達成していく努力をはかる必要があると考えいる。茗水の益々の発展と会員の皆様方のご健勝とご活躍をお祈りするとともに、いずれかの地で酒宴を開き、御一緒できることを願っています。